次は、しんたいはっぷこれをふぼにうく、ってな話をするつもりだったけど、これは長い目で見て大事な話。今日ただいま、この非常時にもうすこし大事な話から書く。
3月11日大きな地震があった後すぐ、周りのみんなは余震のことを心配していたけど、父さんは余震のことは3番目くらいに心配してた。1番心配していたのは社会的なパニック(買い占め騒動とか、治安の悪化とか、エクソダスとか)が起きないかってってことだったけど、2番目に心配していたのは原発のことだ。周りで、地震のことを心配する人がいると、「地震より原発がこわい」って言っていたものだ。
「なぜ日本の政治経済は混迷するのか」っていうだいじな本がある。1960年代から90年代にかけて、経済官僚をやっていた小島祥一って人が書いた本で、「日本の」ってあって、実例の部分は、この人自身が見聞きした、日本の経済政策について書かれているけど、考察の部分はもう少し普遍的で、民主主義の体制の中で、公共政策がなぜ私益によってゆがめられてしまうのかってことがテーマだ。特に前半部分が、今回の原発事故に対する政府や東電やマスコミ(この国の中で大きな権力を持っている組織とそれに属する人々)の対応を見る上で重要だ。ちょっと引用する。
ここで体験したのは、日本は問題を認めることを拒み、認めても小出しの政策対応にとどまり、米欧の圧力が限度まで高まると、やっと本格的な政策をとるが、その後大蔵省が巻き返して逆コース*という政策決定の循環、問題先送りの構造だった。
この政策決定の循環過程をこの人は四幕劇と表現している。以下の四段階だ。
- 何の問題もない
- お茶を濁す
- 知らぬは日本(国民)ばかりなり
- 白旗あげて降参
「1.何の問題もない」は公共の問題があることを、当局は知っていても、それに対して政策的な対策をとることで当局の私益がそこなわれるために、何の問題もないと言い張る段階を指す。経済問題としてバブルの問題をあげるなら、バブルが過熱していてこのままだとたいへんなことになりそうだというのがうすうす分かっていても、それを日本の経済の強さだと主張して対応をとらなかった段階を指す。
「2.お茶を濁す」は、問題を部分的に認定するが、やはり抜本的な対策をとると、政治的にコストが高すぎるために、部分的な対応にとどまる段階。経済問題なら、だいたい金利とかマネーサプライをいじる。経済関係の権力でいうと、大蔵省(今は名前がかわって、財務省と金融庁になってるけどだいたいおんなじ)、日銀、財界の中では、日銀の権力が比較的弱いからだ。
「3.知らぬは日本ばかりなり」当局は前段階で問題が解決したとの言い張るが、こそくな対応しかとられていなかったので、問題は解決しない。注意深く調べれば問題が深刻化していることが明らかだが、当局が情報を隠しているので国民には知られない。だいたい国際的な非難が高まって来る、アメリカなんかからの圧力がかかるってことだ。
「4.白旗あげて降参」問題の結果がたいへんなことになって、誰の目にも明らかになってくると、こんどは対応を取らないことの方が政治的に不利益ということになってくる。で、この段階になってようやく抜本的な対策がとられる。面白いのは(ほんとはちっとも面白くはないが)、この段階になると、1〜3の段階で、問題の所在を示す情報を隠蔽し、対策を遅らせて(国民の)被害を拡大してきた人や組織が、「対策をとったのはうちだ、私だ」とふんぞりかえりはじめるところだ。
でね、この本の話を今日書いておこうと思ったのは、今回の震災の後の原発事故への対応についても、同じようなことが起こっているのではないかという気がするからだ。もちろん経済のことではないから問題の性格が違うし、1. 2.の段階は2004年の中越地震の柏崎刈羽原発の問題や、2006年頃から、試運転段階に、何度も事故を起こしていつ完成するかも分からない六ヶ所村の再処理工場の問題や、笑い事ではないのに笑っちゃうくらい抜き差しならない状況になってる高速増殖炉もんじゅの問題で、今回の大事故の問題の前にすんでいるともいえるわけ。
福島第一原発の事故が起きてからは、僕の目から見ると、まず情報を隠し、隠しきれなくなると、情報を小出しにし、楽観的な解釈ばかり意図的に流し(ほとんど嘘と言っていいようなものとか、明らかな嘘とかもあるね)てるように見える。で、また細かな(小さくはないが)問題が次々起きて2.から4.の段階をくるくる回っているように見える。だいたい嘘ついたり、問題ないと言い張ってから、問題をしぶしぶ認めるまでが2-3日っていう感じだね。
それはいい、問題が終息したとは言えず、最悪の事故に発展する可能性もないわけではないけど、そのことはとりあえず心配してもしょうがないので心配しなくてもいい。書きたいのはこれから、問題がおさまっていくように見えても注意しなくちゃならないことがあるってことだ。
上に書いた四幕劇は循環するって言ったよね。ということは4.で終わるわけではなくて。1.にもどる、つまり「ふりだしに戻る」ってのが次にある。どういうことが起きるかって言うと、4.の段階でとられたドラスティックな対策が行き過ぎだった、もう問題は解決したんだから、元に戻そうって声が必ず出てくるってことなんだ。実際今度のことでも一昨日くらいから、「やっぱり原発は必要だ」とか、「原発がいやなら停電しかない」とかいう声がぽつぽつ聞こえてきている。
この四幕劇、そして原子力発電という技術の性質(いずれ書くつもりだけど、もはや技術と言えすらしないと思う、すくなくとも民生用の技術とは)を考えると、こういう声の裏に公益ではなく私益があるということは容易に想像がつくんだ。
Aちゃん、あなたたちに考えてほしいのは、短期的には原発のことだけど、もう少し長い目では、こういうこと(四幕劇の循環)を防ぐためにはどうしたらいいかってことなんだ。こっから先は、説明ぬきだけど、こういうことは深刻さの程度はさまざまでも、民主主義の社会ーそこでは権力は多元的でなくてはならないーでは必ず起こることで、制度的にこういうことをふせぐことはできない。できるのは、最終的にこういうことのつけを回される国民がもっと賢くなり、正しく権利を行使するしかないのだね。そのためにあなたたちひとりひとりにできることは今は勉強することしかなかったりする。学校の勉強だけではないけど。
じゃあね、勉強しなさい。勉めて強くなりなさい。
* これは、戦後民主主義教育に対して「ふりだしに戻る」の段階で出てきた教育政策に対して最初に言われた言葉、「逆コース」とか「期待される人間像」でぐぐってごらん。
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