2011年4月29日金曜日

わが亡き後に洪水は来たれ

もう分かってると思うけど、僕はこの文章を原発の事故があったから書き始めた。

だから今回の事故がどの程度危ないかってこともいずれ書くつもりだし、原子力発電についてどう思っているかも書かなくてはいけないんだけど、その前にいくつか書いておきたいことがある。それは、Aちゃんが生まれる前の時代に、僕らがどんな考えに親しんでいたかって話だ。

僕が子どもだった時、家の本棚に、岩波文庫の「資本論」って本があった、大人の本でもそこらにあると手当たり次第に読む子どもだったけど、この本には歯がが立たなかった、それで母さんにきいた、なんでこんな本が、ここにあるのって、そしたら母さんが言ったんだ。

「あなたがおなかの中にいる時読んでいたのよ」ってね。

胎教ってやつだったらしい。

Aちゃん、あなたたちにはまだわからないかもしれないけど、こんなことを書くと、おまえの母さんはアカだったんだろうとか、ついでにおまえもアカだろうとか、そういうことをすぐに言う人たちがいる。もうイデオロギーなんてほとんどどうでもいい時代になってるので、そんなことはほんとにどうでもいいんだけど、この、右翼と左翼とか、源氏と平家じゃないけどアカとシロっていうのは、20世紀にはけっこう盛り上がった話なので一応解説しとく。

ここでいうアカっていうのは仏さまにあげるお水のことじゃなくって、 赤、共産主義者のことだ。ロシア革命っていう、共産主義革命の時、革命側、共産主義者の軍隊を赤軍、革命側じゃない方(保守とか、革命側の人たちは反革命とか保守反動って呼ぶ)は白軍っていった。Wikipediaによれば、この赤っていうのは、ロシア革命で流された労働者の血の色なんだそうだ。

共産主義者っていうのが、どういうものなのかもわからないかも知れないけど、ざっくり言うと、左、左翼っていうのが、共産主義とか社会主義とかいう立場の人。何も持たない人々(賃金労働者とか、農奴とか戦前の日本の小作人とか、資本論はそういう人を「自分の 皮以外に売るものをもたない人々」って言ってるらしい)、の味方で、いろいろ持ってる人(王とか貴族とか資本家とか地主とか)の敵。保守主義者、右、右翼っていうのが、その逆、ってことになってる。右翼 vs. 左翼っていう区別は、ロシア革命よりもっと前の、フランス革命にさかのぼる。

僕は子どもだったので、母さんの投票行動については知らないけど、僕の母さんは全然共産主義者じゃなかった。尋常小学校(たぶん3年生くらい)の時に、歴代天皇の名前ーじんむ すいぜいあんねい いとく こうしょう こうあん こうれい こうげん かいか すじん すいにん けいこう せいむ ちゅうあい おうじん にんとく)...ーってのを一晩で暗記して、全校生徒の前で披露して校長先生に、たいそうほめられたってのが自慢だったし、女学校*の時は学徒動員で軍需工場で働いていたし、戦後も、もう戦争はいやだっていうふうには思っていたとおもうけど、別にそういう工場で働いていたことを後悔も反省もしてなかったし(勉強というか学業が戦争のためにまともにできなかったことはとても残念がっていたけどね)、日曜日の朝は、起きていれば「皇室アルバム」は必ず見てた。起きていればっていうのは、毎日午前3時か4時頃まで働いて、朝は7時前には起きて僕の弁当つめてくれたりしてたから、日曜日だけは朝9時頃まで寝ていることが多かったからだ。

なんだか想い出話みたいなことを書いてるけどなぜかというと、やっぱり震災後にふと思い浮かんだ言葉について、いろいろ調べているうちにどうも出典がこの「資本論」って本らしいってことが分かったということが一つ。もう一つはソビエト連邦が崩壊し、共産中国が、なんだか変なことになっちゃって、共産主義っていうのは今、たいへん評判がわるいけれど、1950年代から60年代にかけて、ごくふつう(まあ、ふつうの人なんていないっていうのもそれはそうなんだけど)のおばさんでも、胎教に共産主義のバイブルとも言われるこの本を読んだりしちゃうような空気があって、たくさんの人は未来は共産主義のものだ、あるいはものなんじゃないか、ちょっとこわいけど、みたいに思ってたってことだ。

で、思い浮かんだ言葉っていうのは「わが亡き後に洪水は来たれ」、っていう。こんなふしだらなことをやっていたら、そのうち神様がお怒りになって、ノアの洪水みたいに世界のすべてが押し流されてしまうよ、なんてことを言う人もいるけど、わたしの知ったこっちゃないわ、どうせ洪水が来るとしたってわたしが死んだ後でしょ、そうよ、洪水なんてわたしが死んだ後にくればいいのよ、てな意味だ。

ルイ15世がフランスの国王だった時代に、国王の公認の愛人で、へタレだったルイ15世に代わって実権をにぎっていたポンバドゥール侯爵夫人っていう女性が言ったとされてる。ついでだけど、フランス革命っていう歴史の転換がおこったのは、この次の国王の代、ルイ16世の時だ。ルイ15世の前はルイ14世、太陽王と言われた人だね。中世が近世に移り変わる頃、色々伝統的な制約のあった王の権力が一時的にものずごく強力なものになる絶対王政の時代ってのがあるんだけど、ルイ14世ってのは、その絶対王政のチャンピオンみたいな人。「朕は国家なり」という言葉の主だ。んで、この人が戦争とか贅沢とかむちゃくちゃやったので、フランスの国家財政が傾いて、孫のルイ15世の代にもっと傾いて、その子どものルイ16世の時代に倒れそうになって、三部会っていう議会みたいのを開いて税金をいっぱいとろうとしたら、フランス革命が起きてしまって、あれやこれやでルイ16世はギロチンにかけられてしまったって流れだ。だから、この場合もふしだらなことっていうのは贅沢のことで、そんな贅沢してたら、国家の財政がたちゆかなくなってたいへんなことになりますよ、って言った人に対して言ったとされる。実際、この人が死んじゃってから洪水(=フランス革命)が起きちゃったんだから、なんとも微妙ななりゆきだ。

この言葉を資本主義の精神を端的にあらわすものとして「資本論」の中でマルクスって人が引いているのだね。ただ、この言葉がどういうふうに引かれているか知りたくて調べてみたんだけど、なかなかみつからなかった。ただ引用元をきちんと書いてある記事はあった、これ、

「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」とポンパドゥール侯爵夫人

ただ、この言葉は母さんが読んでいた、岩波文庫版の「資本論」にはなかったようだ。今日、本屋で該当部分を立ち読みしてみたら、この言葉ににあたる部分は「あとは野となれ山となれ」っていう言葉になってた。いささか味気ない意訳なのかもしれないし、かなり成立した事情のややこしい本なので、底本でも別の言葉になってたのかもしれない。ということは、あたり前だけど、僕はこの言葉をお母さんのおなかの中にいる時に知ったわけじゃないってことだ、。実際僕がこの言葉を知っていたのは、齋藤茂男っていうジャーナリストに、まんま「わが亡き後に洪水はきたれ!」って本があるので、大学生だった時に、タイトルだけだけ見て覚えていたのかもしれない。今回調べるまでは、ドストエフスキーの小説にでも出てたんじゃないかって思ってたんだ。

それはともかく、今回の原発事故みたいなことがあると、この言葉が耳に痛い。資本主義に固有のものかっていうとそれはどうだかねってのもあるけど、確かに一理ある。というのは資本主義っていうのは、際限ない物欲(それを抽象化したものとしての金欲)を肯定するからだ。後で紹介する本からの孫引きだけど、ケインズって経済学者がこんなことを言ってる。直接ではなく、今読んでいる(というより、今回のことがあって、改めて読んでいる)本の中にあった。皮肉だからちょっとわかりにくいけど前段も読まないと意味が通らないので、前段を含め、孫引き引用をする。

ガンジーはつねづね、「その下(もと)ではだれもが善人である必要のないような完璧な制度を夢見る」ことを、愚かなこととして退けた。しかしわれわれが今すばらしい科学・技術の力を借りて実現しようとしているのは、まさにこの夢ではないだろうか。科学的合理性と技術力さえあれば足りる時代に、努力しても無理な美徳をどうして求めるのだろうか。

人びとはガンジーには耳を貸さず、今世紀いちばん影響力の大きい経済学者である偉大なケインズ卿の言葉に耳を傾けようとしているのではないか。世界不況のさなかの1930年に、ケインズ卿は『孫の時代の経済情勢』に思いをこらし、みんなが豊かになる時代はさして遠くないという結論を得た。そうなれば、人は「ふたたび手段よりも目的を高く評価し、利よりも善を選ぶ」だろう、と彼はいう。

さらにケインズ卿は「だが、ご用心あれ。まだその時は到来していない。あと少なくとも百年間は、いいは悪いで悪いはいいと、自分にも人にも言い聞かせなければならない。悪いことこそ役に立つからだ。貪欲(どんよく)と高利と警戒心を、まだしばらくわれわれの神としなければならない。これによってはじめて経済的窮乏(きゅうぼう)というトンネルから抜け出て、陽(ひ)の目を見ることができるのだから」といっている。(「スモール・イズ・ビューティフル」E・F・シューマッハー著 講談社学術文庫 1986  p. 31-32

前段のガンジーの言葉も、共産主義に対する猛烈な皮肉になってるんだけど、ここではケインズ卿の言葉に注目だ。現代のいわゆる資本主社会は共産主義はともかく社会主義の要素をかなりとりこんでいるから、ちょっと素朴にはすぎるけど、資本主義をなりたたせている重要な仮説の一つが、個々人がもっとも利己的にふるまうと、市場がうまく調製してくれて、全体がもっとも豊かになる、ってものだったからだ。ケインズ自身は貪欲だけでは足りなくて、需要が足りないときには政府が財政支出をふやさなくちゃ、って言った人として知られてるけど、でもあとしばらく、貪欲が必要なのはあたりまえとしてたわけだね。

とりあえず問題がいくつかあるので考えてほしい、

  1. 日本やアメリカや西ヨーロッパのいわゆる先進国では1990年頃までに、ということは100年といわず60年くらいで「みんなが豊かになる」社会を実現したともいえるのに、そこで人は「手段よりも目的を高く評価し、利よりも善を選ぶ」ようになったんだろうか、むしろその頃から逆に経済的な較差が広がって、新しい形の貧困が問題になってきているのはなぜなんだろう。
  2. まだまだ、世界には貧しい国がたくさんある。それらの国が、いまのやり方で「みんな豊かに」なれるんだろうか。

Aちゃん、きみたちがこれらの問題について考えるためには、いろんなことを知らなくちゃならない、教えることができることについては、できるだけ書いていくつもりだけどね。


* 戦前は小学校までは共学だけど、中学校にあたるところから上は別学が基本だったので、今の中学校みたいな学校を女の子の場合は女学校っていった。ついでにいうと、一部の私立大学や師範学校(先生を養成する学校)以外の一般の大学に女の子が行けるようになったのは、戦後のことだ。

2011年4月4日月曜日

何の問題もない

次は、しんたいはっぷこれをふぼにうく、ってな話をするつもりだったけど、これは長い目で見て大事な話。今日ただいま、この非常時にもうすこし大事な話から書く。

3月11日大きな地震があった後すぐ、周りのみんなは余震のことを心配していたけど、父さんは余震のことは3番目くらいに心配してた。1番心配していたのは社会的なパニック(買い占め騒動とか、治安の悪化とか、エクソダスとか)が起きないかってってことだったけど、2番目に心配していたのは原発のことだ。周りで、地震のことを心配する人がいると、「地震より原発がこわい」って言っていたものだ。

「なぜ日本の政治経済は混迷するのか」っていうだいじな本がある。1960年代から90年代にかけて、経済官僚をやっていた小島祥一って人が書いた本で、「日本の」ってあって、実例の部分は、この人自身が見聞きした、日本の経済政策について書かれているけど、考察の部分はもう少し普遍的で、民主主義の体制の中で、公共政策がなぜ私益によってゆがめられてしまうのかってことがテーマだ。特に前半部分が、今回の原発事故に対する政府や東電やマスコミ(この国の中で大きな権力を持っている組織とそれに属する人々)の対応を見る上で重要だ。ちょっと引用する。

ここで体験したのは、日本は問題を認めることを拒み、認めても小出しの政策対応にとどまり、米欧の圧力が限度まで高まると、やっと本格的な政策をとるが、その後大蔵省が巻き返して逆コース*という政策決定の循環、問題先送りの構造だった。

この政策決定の循環過程をこの人は四幕劇と表現している。以下の四段階だ。

  1. 何の問題もない
  2. お茶を濁す
  3. 知らぬは日本(国民)ばかりなり
  4. 白旗あげて降参

「1.何の問題もない」は公共の問題があることを、当局は知っていても、それに対して政策的な対策をとることで当局の私益がそこなわれるために、何の問題もないと言い張る段階を指す。経済問題としてバブルの問題をあげるなら、バブルが過熱していてこのままだとたいへんなことになりそうだというのがうすうす分かっていても、それを日本の経済の強さだと主張して対応をとらなかった段階を指す。

「2.お茶を濁す」は、問題を部分的に認定するが、やはり抜本的な対策をとると、政治的にコストが高すぎるために、部分的な対応にとどまる段階。経済問題なら、だいたい金利とかマネーサプライをいじる。経済関係の権力でいうと、大蔵省(今は名前がかわって、財務省と金融庁になってるけどだいたいおんなじ)、日銀、財界の中では、日銀の権力が比較的弱いからだ。

「3.知らぬは日本ばかりなり」当局は前段階で問題が解決したとの言い張るが、こそくな対応しかとられていなかったので、問題は解決しない。注意深く調べれば問題が深刻化していることが明らかだが、当局が情報を隠しているので国民には知られない。だいたい国際的な非難が高まって来る、アメリカなんかからの圧力がかかるってことだ。

「4.白旗あげて降参」問題の結果がたいへんなことになって、誰の目にも明らかになってくると、こんどは対応を取らないことの方が政治的に不利益ということになってくる。で、この段階になってようやく抜本的な対策がとられる。面白いのは(ほんとはちっとも面白くはないが)、この段階になると、1〜3の段階で、問題の所在を示す情報を隠蔽し、対策を遅らせて(国民の)被害を拡大してきた人や組織が、「対策をとったのはうちだ、私だ」とふんぞりかえりはじめるところだ。

でね、この本の話を今日書いておこうと思ったのは、今回の震災の後の原発事故への対応についても、同じようなことが起こっているのではないかという気がするからだ。もちろん経済のことではないから問題の性格が違うし、1. 2.の段階は2004年の中越地震の柏崎刈羽原発の問題や、2006年頃から、試運転段階に、何度も事故を起こしていつ完成するかも分からない六ヶ所村の再処理工場の問題や、笑い事ではないのに笑っちゃうくらい抜き差しならない状況になってる高速増殖炉もんじゅの問題で、今回の大事故の問題の前にすんでいるともいえるわけ。

福島第一原発の事故が起きてからは、僕の目から見ると、まず情報を隠し、隠しきれなくなると、情報を小出しにし、楽観的な解釈ばかり意図的に流し(ほとんど嘘と言っていいようなものとか、明らかな嘘とかもあるね)てるように見える。で、また細かな(小さくはないが)問題が次々起きて2.から4.の段階をくるくる回っているように見える。だいたい嘘ついたり、問題ないと言い張ってから、問題をしぶしぶ認めるまでが2-3日っていう感じだね。

それはいい、問題が終息したとは言えず、最悪の事故に発展する可能性もないわけではないけど、そのことはとりあえず心配してもしょうがないので心配しなくてもいい。書きたいのはこれから、問題がおさまっていくように見えても注意しなくちゃならないことがあるってことだ。

上に書いた四幕劇は循環するって言ったよね。ということは4.で終わるわけではなくて。1.にもどる、つまり「ふりだしに戻る」ってのが次にある。どういうことが起きるかって言うと、4.の段階でとられたドラスティックな対策が行き過ぎだった、もう問題は解決したんだから、元に戻そうって声が必ず出てくるってことなんだ。実際今度のことでも一昨日くらいから、「やっぱり原発は必要だ」とか、「原発がいやなら停電しかない」とかいう声がぽつぽつ聞こえてきている。

この四幕劇、そして原子力発電という技術の性質(いずれ書くつもりだけど、もはや技術と言えすらしないと思う、すくなくとも民生用の技術とは)を考えると、こういう声の裏に公益ではなく私益があるということは容易に想像がつくんだ。

Aちゃん、あなたたちに考えてほしいのは、短期的には原発のことだけど、もう少し長い目では、こういうこと(四幕劇の循環)を防ぐためにはどうしたらいいかってことなんだ。こっから先は、説明ぬきだけど、こういうことは深刻さの程度はさまざまでも、民主主義の社会ーそこでは権力は多元的でなくてはならないーでは必ず起こることで、制度的にこういうことをふせぐことはできない。できるのは、最終的にこういうことのつけを回される国民がもっと賢くなり、正しく権利を行使するしかないのだね。そのためにあなたたちひとりひとりにできることは今は勉強することしかなかったりする。学校の勉強だけではないけど。

じゃあね、勉強しなさい。勉めて強くなりなさい。


* これは、戦後民主主義教育に対して「ふりだしに戻る」の段階で出てきた教育政策に対して最初に言われた言葉、「逆コース」とか「期待される人間像」でぐぐってごらん。