2012年4月23日月曜日

時間等曲率漏斗

あるいは、なぜ、世界にはいくつもの「正しい」があるのかだ。

時間等曲率漏斗(クロノ・シンクラスティック・インファンディブラム)というのは、カート・ヴォネガットの小説「タイタンの妖女」*1っていうのに出て来る。では、ちょっと長い引用をば、

そもそも時間等曲率漏斗クロノ・シンクラスティック・インフャンディブラムの簡単な説明というもの自体が、その道の専門家にとって腹立たしいことであるに違いない。それを承知で最良の簡単な説明をえらぶとすれば、おそらく<いろいろなふしぎと、なにをすればよいかの子ども百科>第十四版におさめられたシリル・ホール博士のそれではなかろうか。出版元のご好意により、つぎにその項目の全文を引用することにしたー
クロノ・シンクラスティック・イファンディブラム もし、きみのバパが、地球のいままでのだれよりもりこうで、どんなことでも知っていて、なんにでも正しいことがいえて、そのうえ自分が正しいことをちゃんとしょう明できる人だったとしよう。つぎに、ここから百万光年むこうの、あるすてきな世界にもひとりの子どもがいて、その子のパパは、そのとおいすてきな世界のいままでのだれよりもりこうな人だったとしよう。その人はきみのパパとおなじぐらいりこうで、おなじぐらい正しいんだ。どっちのパパもりこうでどっちのパパも正しいのさ。
だが、もしかしてこのふたりがでくわしたら、きっとたいへんなぎろんになるだろう。なぜって、ふたりははどんなことにも考えがわかれるからだ。うん、きみならきみのパパが正しくて、よその子のパパがまちがってる、というかもしれないね。しかし、宇宙はすごく大きいところなんだよ。だから、すごく大ぜいの人間がみんな正しいことをいって、それでも考えがわかれるってこともあるわけだ。
どっちのパパも正しいくせに、それでもたいへんなぎろんになるのは、 いく通りもの正しさがあるからだ。しかし、この宇宙には、そこへいけばどっちのパパもむこうのパパがなにを話しているのかわかるような、そんな場所がいくつかある。そんな場所では、いろいろなしゆるいの真理が、きみのパパの太陽時計の部品みたいに、ぴったり一つになっている。そんな場所のことを、クロノ・シンクラスティック・インファンディブラムという。太陽けいには、たくさんのクロノ・シンクラスティック・インファンディプラムがあるらしい。いままでにたしかめられた大ものの一つは、いつも地球と火星のあいだをうろついている。それがわかったのは、ひとりの地球人と一とうの地球犬がその中へとびこんだからだ。
ひょっとしたらきみは、クロノ・シンクラスティック・インファンディプラムの中へとびこんで、いろんな考えかたがどれもぜったいに正しいとわかるのはすてきだろうな、と思うかもしれないが、それはすごくきけんなことなんだ。いまいったかわいそうなおじさんと犬は、空間の中だけじゃなく時間の中にも、うんと速くのほうまでばらばらにちらばっているのさ。
クロノは時間といういみだ。シンクラスティックというのは、オレンジの皮みたいに、どっちの方向へもおんなじように曲がっていることだ。インファンディプラムというのは、ジュリアス・シーザーやネロのような大むかしのローマ人が、じょうごのことをそうよんでいたんだ。もしきみがじようごってどんなものか知らないなら、ママにそういって見せてもらうといい。
(前掲書 浅倉久志訳 早川書房 東京 2009 p20)

この引用部分自体が、架空の科学事典からの引用という形をとっているからややこしい。相対論だか量子論だかにひっかけた部分はSF的ヨタ話で、要はこの世界には、思考の枠組みというか、よって立つところの文化というものが複数あるので、それに規定された「正しい考え」っていうのもいくつかあって、それを一致させるなんてのはほとんど不可能であるっていうか、それが可能な視点なんかに人間が立つことができたら、その人は太陽からペテルギウス星までばらまかれるというか引き裂かれてしまう、っていうかそのぐらい大変なことなんだ、ってことなんだと(ある思考の枠組みに従って)僕は思う。とまたまたややこしい。

「正しい」っていうのがどういうことなのか、ってこともくせ者で、これも突き詰めて考えていくと「『正しい』っていうのにもいろいろある」っていう二重かぎ括弧つきのややこしいんだかややこしくないんだかわけわかんない結論になってしまうんだけど、とりあえずふつーに考えた場合は、世界には事実っていうものと意見っていうものがあって、事実に関しては何が正しいか間違っているかはっきりしてるけど、意見に関しては絶対に正しい意見っていうのはありえない、ってことになってる。同じ事実に関して2つの意見があるっていう場合、この意見は立場というか(さっきも言ったしこれからも多分頻出だけど)思考の枠組みによるのでどちらが正しいともいえないってことになる。それでも、意見についてだって、みんなが、あっちこっちで、こっちが正しいのあっちが正しいのとあーだこうだとかやってる。でもね、それはどっちが正しいってことではなくって、どちらの立場が適切なのか、ってことなんだ。ここまでで十分またまたややこしいけど、もっとややこしい話を後でする。んでまた後でする話ほどややこしくはないけどちょっとややこしいことに、事実についての記述でさえ、ある時まではこの記述が正しいとされていたけど、後になって、別の記述が正しいとされるってことがある。特に事実に関して厳密な記述をする科学の世界でそういうことがあるんだ。まあただこの場合はふつー、後から出て来て、科学者のみんなに認められた記述の方が(以前の定説を近似的に含んだりしながら)正しいってことになる。この場合の、ある時代の科学者に共有された思考の枠組みをパラダイムって言う。細かい事実の記述の修正はしばしばあっても、このパラダイムの転換ってのはそんなにない。人類の歴史を通して数回くらいみたい。この話の肝は、事実と意見の区別っていうのもいうほど簡単じゃないよってことなんだけど、

それはともかく。

「正しい」とか「間違ってる」って判断をするのは人間なんだけど、何にもよりかからくて判断するわけじゃないそこに「思考の枠組み」とか「ものの見方」っていうものがあって、これは個人的なものなんだけど、これもただ孤立してあるもんではなく、その「ものの見方」をささえる「文化」ってものがある。それはある社会に属する人間のふるまいの総体、そこから共有されるようになった物や事だ。動物の場合はほとんどの行動が生得的に行われるわけだけど、人間の場合生まれてからこの文化を学習することによって行えるようになるものが多いんだ。人間が動物より、無力な形で生まれてきて、その一生のかなりの部分を、子どもあるいは大人になる前の勉強している若者として過ごさなくちゃならないのはそのせいだね。犬がある程度の大きさの石ころを見たら、その上に乗っておすわりとかねそべったりできるって考えるのは、大部分生まれつきだけど、人間の場合、椅子は腰をおろすものだって分かるのは生まれつきの部分より、生まれてからこの文化を身につけることによる方がたぶん大きい。

しかも、この地球上には、異なる文化を持った社会ってもんがいくつもある。たとえば、アメリカ人ならドアの把っ手が縦についてるか、横についているかで、そのドアが押すものか引くものかがわかるけど、日本人には分からない、それはアメリカ人の文化にはそういうコードがあるけど、日本人の文化にはないからだ。

「思考の枠組み」とか、「文化」とか、「文化によって規定されるものの見方」とかいうことぬきにしても、世の中にいろんな相容れない意見とかものの見方があるってことは、ニュースとか見てれば分かるでしょ。アメリカって国があって、アルカイダって人たちがいて、お互いに相手が間違ってて、自分が正しいって言ってる。

イランって国があって(あるいはイスラムっていう宗教があって)、イスラエルって国があって(あるいやユダヤ教っていう宗教があって)お互いに、相手が間違ってて、自分が正しいって言っている。

たまに自分が間違ってて、相手が正しいって言うのがこういう時にあればいいって思うんだけど、そういうことは、くにとか宗教においては滅多におこらない。くにとか宗教とかって但し書きをつけたのは、こういう人間っていうか知的生命体っていうかの集団については、フラクタル*2的な構造があって、くにの中にもいくつかの考えの違った集団があったり、その集団の中でもそれぞれ考えの違った個人がいたりして、たとえば個人のレベルなら、間違いを認めたりすることが、よくあることではないにしろ、集団の場合よりは多くあるからだ。チョー下手な絵でこの関係を下に示すけど、個人の中にさえいくつもの考えがある。たとえば誰でもハムカツとかケーキとかを目の前にすると、心の中に天使と悪魔が現れるだろ。さらに人間の思考っていうのがおそろしいのは、この天使とか悪魔の内部にすらいくつもの考えがある状態を想像できることだ。こういうのを再帰性っていって、言語とか人間の思考の構造そのものの中にくみこまれているみたいだ。それはともかく、国際社会とかの上にはなんにもないかもしれないし、あるかもしれない。火星人がいるかもしれないし、ノンマルトの使者(ウルトラセブン#42)なんてのもあったし、地底人とか最低人(©いしいひさいち)だっているかもしれない。まあ、このレベルになると想像上のものになってしまうわけだけど、そういうことをぼくらが想像できるってことは大事なことだ。

終身斉家治国平天下

この図には、絵が下手だと言うこと以外というにも問題があって、たとえば国とかと宗教とかは同じレベルに存在していても機能の違う集団だから、並立しているんではなく複雑に重なり合っているし、一人の個人が地域社会とか会社なんかに関しても、たくさんの集団に属しているっていうことはよくあることだし、家族っていうのと会社がまったく同じって場合もあるわけだし、そういうややこしいところが簡略化されているし、正確に描かれていない。だから言葉で補わなければならないんだけど、この図の中で一番大事なのは、個人<家族<?<国の4つだ。

現代に生きる僕たちにとっては、国っていうのはほぼ社会とイコールだ。で、この?で書いたのを中間集団っていう。定義からすると、社会=国家のある公的な領域と、個人ー家族のあるプライベートな領域とのなかだちをする集団で、かつてはこれがムラとか、おおむね、一緒にお祭りをやる集団だったわけだけど、この部分の力が弱くなって、会社とかPTAとか一過性の機能集団の方に吸い上げられているのが現代の問題なわけだけど(これだけ豊かな社会でも孤独死なんてことが起きるのはこのせいだね)、その話はちょっと本筋からずれている。

本題は、世界にはなぜいくつもの「正しい」があるのか、というより、同じ社会の中ですら、あるいは、君たちに考えやすい例でいけば、一つの教室の中にも2つの「正しい」があるのか、ってことだろう。「正しい」側と、「間違ってる」側が存在するわけじゃない、どちらも自分は「正しい」と思ってるっていうか、たぶん自分のやってることを間違ってるって思いながら「差別」とか「いじめ」をする人なんてめったにいない。

でね、こういう時、社会の中に、教室の中に壁ができる。この壁は社会や教室を一つの丸としてえがくと、こういう形

Bakanokabe 1r

ではなく、

こういう形

Bakanokabe2r

をしている。

なぜかというと、社会や教室の中ではこの壁の両側にいる人々の関係が対称的なものではないからだ。

いじめる側、差別する側、「殺す側」って言ってもいいね。いじめられる側、差別される側の方は「殺される側」って言ってもいい。ここでふしぎなのは、同じ文化を共有しているはずの社会の中で、なぜ対立が起って、いくつもの「正しさ」がうまれてしまうのか、ってことと、教室の中には、いじめもしなければ、いじめられるわけでもない人もいるし、社会の中でも、差別されているわけじゃなくても、「差別なんていけないことだ」と思っている人もいるけど、その人たちはどこにいるかってこととかだ。次はそんな話ができたらいいなあ。


*1 ヴォネガットって人は5年前の2007年になくなったので、それから昔の作品も再販されて、この作品もこんな表紙で出てる。

タイタンの妖女表紙新

でも僕が、うん十年前に読んだ時は、こんな表紙だった

タイタンの妖女表紙

表紙だけじゃなくて、裏表紙の作品紹介も新しくなっていて、うん十年前は、「心優しきニヒリスト、注目の作家ヴォネガット」と紹介されていたのが、2009年には「巨匠」ってなってる。ヴォネガットみたいな人をそういうくくりに入れるのもなんか違和感があるんだけど、とにかく合掌瞑目。

*2 フラクタルっていうのは最近というより2011年に転けていた変態ロリアニメのことではなくて、部分と全体が大きさこそ違え同じ構造を持っているような集合のことをいう。自然の中には、フラクタル的な構造というか形がいっぱいある。樹なんか見てると、枝がそういう形だし、葉っぱ一枚見てみても、葉脈がまたそういう形だね。