2012年1月12日木曜日

殺す側と殺される側

「殺す側」なんて言葉を見て、ぎょっとしたかい。僕らの世代以上だと、この言葉を見ると、本多勝一って人のことを思い出す。今や、そんな人もいたのか、程度だけど(この人が嫌いな人っていうのはいっぱいいて、そういう人にとっては、未だにこの名前は呪詛の対象、っていうと言い過ぎ かもしれないけど、まあ、この人にだまされたとして恨んでいる人もいっぱいいるみたいだ)、30年くらい前はいやどうして、たいしたもんだった。で、最近、某所で、

まあ、東電も大きな意味で被害者なんだろうけどね

という言葉に対して、

いや、やっぱり東電は「殺す側」でしょう

と返したら、まあいろいろあって、民主主義云々の話になって、僕が

これは、民主主義を理念としてとらえているからではなくて、単に、民主主義の理念を誤ってとらえているからでしょう。

とやったら、

というようなKARAさんの言葉は、まさに「正義と邪悪」を選別する言葉ですね。こういう思考をしているから、「殺す側」という色分けが簡単にできるのでしょうね。

 

「理念を誤って捉え」っていうのは、あくまでKARAさんの認識であって、それは人によって違うでしょう。「人によって違うこと」は、議論や学問の対象にはなっても、人々の共通の財産にはならないのです。人と人が共有化し共通の財産となるものは、「制度」であり「手続き」である、というのが私の言いたいことです。

とやられてしまった。

まあ、「民主主義の理念をあやまってとらえている」程度で、しかも、議論の相手の民主主義の理念のとらえかたが間違っているといって非難したわけでもなく—そもそもその人は「民主主義は理念ではなく、制度である、あるいは、民主主義の理念なんてのはひとそれぞれいろいろあるんだから、そんなことを問題にすべきではなく、ただ制度としての民主主義に従うことで世の中うまくいくんだ」と主張しているわけだから、とりあえず正しいも間違ってるもないわけだ、ただ、それがやはりある種の理念に基づいたものの見方なんじゃないかってことは後述—「正義と邪悪」なんてことを言われたのにはちょっと参ってしまったし、理念というのは認識の枠組みなんだから、共通の理念っていうのがなければ、そもそも「正しい」とか「間違ってる」っていうこと自体できなくなんんじゃないかとも思った。で、そういうことを頭の隅におきつつ、ちょっと返信を返したんだけど、この後議論は完全にすれちがってしまうんだよね。そのすれちがった議論もどうでもいいわけではないけれど、そういう議論は往々にしてすれちがったままだから、とりあえずその同じ場で言い返すのはやめにした。で、そのすれちがった議論はともかくとして、ここまでで、「民主主義の理念」はどういうものか、っていう以上に大事な問題が現れている。 それは、「文化とはどういうものか」、とか、「なぜ、正しいことはいくつもあるのか」、だ。 民主主義も大事ではあるけれど、この後の方の問題は、3.11の後(9.11の後かもしれない)の社会のありかたにとって、時宜を得た話題だし、ぐるっと回って、本多勝一がなぜ、「殺す側」なんてどきっとするような言葉を使ったのかとか、こういう言葉を使わなければはっきり見えてこない、日本の社会の性質ともかかわってくる。

ちなみに、殺す側の論理、っていうのと殺される側の論理っていう本があって、僕が若かった頃は朝日文庫っていうのにはいっててて、どこの本屋でも手に入ったけど、今はふつーの(新本をあつかう)本屋にはないみたい。青空文庫で読めるほど古くはないので、読みたかったら図書館でさがしてみよう。ひょっとしたらうちにもあるかもしれないけど、うちで探すより図書館で探す方が早いかも(とほほ)。

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この項続く。それにしても表紙からしてギョッとするね。