2011年11月23日水曜日

野山北公園

鳥を見に、というより、ほとんど犬の散歩のために野山北公園に行く。

このあたり、狭山湖周辺の丘陵は水源林であるために開発の手が入っていなくて、山野の鳥を見るにはいいところ。20年以上前から通っているが、この10年来、公園としての整備が進んで、東京都側では野山北公園、埼玉県側では、さいたま緑の森博物館というのができている。六道山公園というのは昔からあった。 野山北公園事務所からちょっと下ったところの駐車場、里の紅葉のベンチマークにしているイロハカエデの木がある。まだらに枯れたような感じで今年の紅葉はどうやら外れ。 丘陵の尾根道に上がる。

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最近のデジカメはたいしたもので、きれいな紅葉はとてもきれいに、きれいでない紅葉でもそれなりにとれてしまう。写真といっていいのかどうか疑問だけど。


カラたちのツピツピよりもコゲラの声の方がよく聞こえる。スズメは見かけない。ヒヨドリの声も聞こえるが、ガビチョウの声が聞こえないのもふしぎなくらい。とはいってもガビチョウの地鳴きってどんなのか知らないのだった。どっちにしても歩き始めたのが11時過ぎだから、鳥が一番不活発な時間なのでしょうがない。

尾根道を少し歩いて、里山民家の方に下る。ここは公園として整備される前は、不法投棄されたゴミで谷戸がうまっていたところ。ゴミを片付けて、耕耘したら、土中にうもれていた種が芽を出して、里の田んぼの生態がだいぶ回復して来ているみたい。里山民家は名主格の農家を移築したか新築したかで蔵つきの立派な建物。ボランティアの事務所になっているプレハブも併設されていて、いろいろ面白いことをやっている。

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ちょっとわかりにくいけど、いちばん左の茅葺屋根が里山民家



それはともかく、里山民家についたあたりで、ハシブトガラスの声がうるさい、なんかモビングをしているみたいだなと思ったら。オオタカが現れた。しばらくして、もう少し翼がとんがっていて、尾がもう少し長くて、飛翔の途中で時々羽ばたきをはさむ同じぐらいの大きさのワシタかも同じ空に現れる。ハヤブサじゃないか。そのうち同じ空にトビも出て来た。時間が悪くて、冬鳥は全然だったけど、ワシタカが3種も見れたので、まあよしとしよう。

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この空にオオタカだのハヤブサだのトビだのが舞い飛んでいた

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田んぼに水が張ってあった。二期作をやってるのかしらん。

もういちど尾根に上がって駐車場に戻る途中、キジの声は遠くで聞こえた。

印旛沼のあたりでも、このあたりでも、こういう丘陵地帯っていうのは、古くから人が住んで来た場所だったはずだ。印旛沼のあたりは低いところは湿りすぎていてなかなか耕作に向かず、このあたりの低いところはまた逆に水が得にくくて耕作にむかなかたけど、丘の谷間に水が湧き出る、谷戸と呼ばれるところがいちばん水田にしやすかったので、そういうところに古くから日本人が住んでいたのだと、何かで聞いたことがある。この辺ではどうだか知らないけど、印旛沼のあたりだと、谷戸でコメを作って、丘の上に畑を作って、かなり自給自足みたいな生活ができたんだと。ただ、時代がくだると、こういうところの田んぼは水温が低いせいで収量があがらず、放棄されたところも多かったのだと。それだけではないのだろうけど、高度成長期の後半にはここいらもゴミの山になっていたわけだ。

20年前くらいに、この辺にサイクリングに来た時。里のお寺で話をきいたことがある。その20年前の10年くらい前には鳥も姿がほとんど見えず、今日歩いたようなところもマムシが多くてとても立ち入ることができなかったけど、このごろ(というのが20年前)タカが戻ってきて、蛇が減って、だいぶ歩きやすくなってきたのだと。

まったくのウィルダネス(原生というか本来の意味での自然というか)というのはヒトが住みやすいところではないし、見捨てられてあれはてて生命の循環が保てないようなところにもヒトは住めない。適度にヒトの手が入って、維持されて、そこに、虫はもちろん、カエルやヘビも、スズメもタカもカラスも、タヌキやキツネも住んでいるっていうあたり、こういうところが人間にとっていちばん住みやすい場所だったはずだ。

前述のように、ここの埼玉県側は、さいたま緑の森博物館っていう。こういう場所での人間の営み自体が、今や博物館の陳列物になってしまっているわけだ。いやそれがいけないって思っているわけじゃない。こういう場所はもっとできなくちゃいけないし、こういう場所での暮らしをおもいだすことで、これから僕らがどう暮らしていくのか考えなくちゃいけない。

それにしても、都会暮らししたことのない僕でも(あるいは都会暮らししかしたことがないからかもしれないけど)、なんとも言えない郷愁を感じる。なんかジャニーズのアイドルグループがやっている番組のコーナーで、村暮らしをするようなのがあって、結構人気もあったようなのは、こういう郷愁に支えられているんだろうな。そういえば、あの村は福島原発の避難区域に入っていたんだ、と、鳥見の話のつもりがどうしてもそこに戻って行く。

次はなんとかまた、戻っていった方の話を書きたいと思います。

2011年11月14日月曜日

甚兵衛渡し

3.11の震災/原発事故思うことや、考えをまとめておきたいことは多々あるのだけれど、あまりあせっても書けなくなるので、ぼちぼちやっていくことにして、今日は全然違う話題。 久しぶりに北印旛沼に鳥を見に行ったので、その記録。とはいえ、フィールドスコープは持たず、図鑑も忘れるという体たらく。 15、6年前頃、今回の目的地よりはだいぶ南西の方になるが、佐倉の手前の四街道というところに住んでいたので、この辺りにはおりふし鳥を見に来ていた。北総丘陵地帯でも奥の方で、今住んでいるところからは遠いので、当時以来、本当にひさしぶりだ。 通って居た頃は、何もないところだったので、東関道のインターをおりて、にぎやかなところのコンビニでおにぎりとお茶を買って行く。 このあたりの道は、坂をのぼると視界がせまくなり、おりて行くと視界が開けて水田が広がる。干拓される前は水田の多くも沼か湿地だったんだろうが、いずれにしろ、こういう風景は、海岸の風景、山間いの風景とならんで、日本の原風景の一つだと、誰かが言っているかもしれないけど、あまり聞かないので自分で時々言っている。 北印旛沼に鳥を見に来る時は、いつもここにくる。義民惣五郎の悲話に出てくる、甚兵衛渡しのあたり。かつて渡し場があったあたりに見事な一群の松(水神の森とか甚兵衛の森というらしい)があって、小さな公園になっている。以前もそうだったが、今回もここに車をとめる。 昔はみかけなかった高架橋が、印旛沼方面の視界をさえぎっている。どうも鉄道らしい。 P20111113 1 公園の道をはさんで向かい側にもコンビニができていて、イオンモールまで何キロとかの看板もあって、だいぶ様変わりしている。 水辺というか甚兵衛大橋の方に向かう道も、細い道なのに交通量が多く、これも様変わり。水辺までは500 m強あって、歩きにくそうだと心配したが、車道の脇に、歩道というのではないが、歩けるところが続いていた。 DSCN0607 高架橋は、成田新高速鉄道というらしい。 水辺に出るまでに、スズメ、ハシブトガラス、ハシブトガラスにはご対面したり、声を聞いたりしていたが、水辺についたとたんにモズの高鳴きが聞こえてくる。電線の上だった。あたりを見渡すと、ダイサギ、コサギ、アオサギ、マガモ、カルガモなど。遠くにトンビが飛んでいる。カイツブリを見つけるより先にカンムリカイツブリが目にとびこんできた。マガモはかなり神経質で、近づくと逃げたり隠れたりするが、カンムリカイツブリの方はそういう様子もなかった。ホオジロが巣を守っているような様子でさえずっている。今年は異様に暖かかったというか、暑かったから、まだ巣をかけているんだろうか。 カワラヒワがキリコロいいながら空を飛んでいく。カワセミもじっくりはみれなかったけど、青い閃光として何度かみかけた。 土手の上を歩いていると、行く手にワシタカの姿が、チュウヒだった。しばらく見ていると、少なくとも2個体はいるみたい。 ヨシ原の中に、オオジュリンみたいなのが見えたような気がしたけど確認できなかった。ハクセキレイが飛んでいるのでもひさしぶりに見るので楽しい。 晴れていて、気温も湿度も高く、暖かいというより、ちゃんと秋の恰好をしているとちょっと暑いくらいだろうけど、刷毛でかいたような雲も出ていてすっかり秋の空。満足して車に戻る。 車を出して、甚兵衛大橋を渡り、成田線の方へ。小林のあたり、から木下へ向かう。途中、以前見たおぼえのない大きな集合住宅をいくつも見かける。 DSCN0618 木下の駅、昔の木造駅舎は建てかわっていたが。駅前のせんべい屋さんはそのままだった。 DSCN0619 30年前、僕が東京に出てきた頃には、まだ、野菜の行商をする女性を見かけることがあった。その後、花森安治の「千葉のおばさん」という文章(「一戔五厘の旗」所収)を読んで、その女性たちから、主に、このあたりから東京に出てくるのだと知った。というより、その文章はとうに読んでいたのだけど、頭の中でぜんぜん像を結んでいなかったのが、多少ともこのあたりの風土とのかかわりが出てきて、そんな文があったことを思い出して、読み直してみたのだと思う。 そっけなく置いてある、せんべい(醤油味の一種類だけ)を買い求めながらそんなことを思い出していた。 家に帰って、福島から飛んできた放射性物質もほんのちょっとだけ入っているお茶を入れて、せんべいを食べながら、この文章を書いている。で、つらつらまとまらないことを考えているのだけど、 もう、あのあたりから、東京へ野菜の行商に行く女性なんていないだろう。別に始まったのも関東大震災の直後だというし、昭和が終わる頃には、もうおわっていただろうからたかだか5,6十年の歴史だ。 野菜の行商自体は、たいへんな重労働だし、貧富の差を前提としているところもあって、なくなって良かったし、なくなるべきものだったんだろうとは思うのだけれど、その背景あったくらしのかたちはどんなものだったんだろうか、ってことが気になっている。 結局実現しなかった新幹線にかわって、成田空港と東京を結ぶきれいな鉄道ができた。便利になるのはいいことなんだけど、一言で言うと、便利になるのと一緒に、世界がどんどん平らになっていくような気がするんだね、通過するだけの場所になるような。 うまく言えない、とりあえず今夜はここまで。