情けないことに、9月は一回も更新できなかった。この前更新したのは8月の初めだから2ヵ月もほおっておいたことになる。この「公害」については、僕がほんの小学生くらいだった時からずっといろいろ考えていることで、それでもなかなかまとまらないんだけど、まとまるのはいつになるかわかんないんで、とりあず上げることにした。
一枚の写真
Aちゃん、”Tomoko in her bath" (W. Eugene Smith1971)、って写真を見たことがあるかい。胎児性水俣病の女の子とその子のお母さんが入浴しているところの写真。一時、中学校とかの社会の教科書には必ずといっていいほどのっていたから、ある世代の人の目には必ずふれていたといってもいいくらい。でも2000年頃に、写っていたご本人たちからの申し出により、著作権を管理していたアイリーン・スミス*って人が、新たな出版物に使われることを差し止めたので、なかなか見る事ができなくなってる。とても残念だ。すばらしい写真だからね。
絵画って、目に映らないものを、見せてくれることがあるだろう。写真は、そこにあるものをただ写しているだけだから、そんなことないって思うかもしれないけど、その写真なんかを見ればそれはちがうってことがわかる。たとえその場面を生で目にしても僕らみたいなぼんくらにはわからないようなことが、そこには写っているよ。もちろんまず何が見えるかは、人によってちがうだろう。病気の悲惨さとか、むごさをまずまず感じる人もいるだろうし、暴力っていうものを見る人もいるだろうし、もちろん愛情ということを見る人もいるだろう。僕の目にもそういうものは映るけど(ほんとに映ってるんだろうかって思うこともあるけど)、この写真をみて、いちばん感じるのは、人を人たらしめるものは何かってことだ。君が僕を人たらしめている、僕が君を人たらしめている。人っていうのはね、動物とちがって、人と人との関係によって成り立っている。母と子の関係、写真を写す人と写される人の関係、その写真を見るぼくらとの関係、その他もろもろ。ちょっと話を広げすぎかもしれないけど、人っていうのはそういう、関係の網の目が作る社会によって存在しているんだ。だからね、ぼくらは、フクシマのことも、というより、福島にいる人たちのことを考えなくちゃいけないし、ミナマタのことを考えなくちゃいけない。突然で、文脈から離れてて、何のことだか分からないかもしれないけど、一万年くらい前にその辺で貝を掘ってた人たちのことも考えなくちゃいけないのかもしれない。国家なんてことについても考えなくちゃいけないのかもしれない、時にはだけど。
棄民
なぜだか、今度のことがあってから論語のことばをいろいろ思い出すんだけど、いわゆる「公害」のことを考えてると、教えざる民を以て戦う、之を棄つと謂う(子路第十三の30)、なんてのが頭に浮かんでくる。「棄民」っていうのの元になった文章だね。前段は、おしえざるのたみをひきいてたたかう、って読みもあって、いずれにしても戦争のことだから、若干状況はちがうにせよ、国民にその戦う相手のこと(放射能汚染)のことをろくにおしえもせず、しかも戦わなくていいなんてことまでいうわけだから、棄てていることに違いない。思えば、明治以来この国はずっとそうだったわけで、民は、谷中村で棄てられ、土呂久で棄てられ、インパールで棄てられ、沖縄で棄てられ、満州や樺太で棄てられ、水俣で棄てられ、神通川や阿賀野川で棄てられ(ほかにもあと6つくらいはすぐに思いつく、きちんと考えればもっともっとたくさんあるだろう)、ずっと棄てられ続けてきて、今でも棄てられていて、原発事故のことでも、今後何十年か、百年か棄てられ続けるわけだ。
棄てるなんてけしからん、とそういうことを言いたいんじゃない。僕も棄てられる側にいるのと同時に、棄てる側にいるのかもしれないからだ。だいぶ前のことになるけど、エイズ事件が話題になっていた頃、菅直人が厚生大臣だった頃だったか、ある人と水俣の話をしていた。水俣の時も厚生省(いまの厚生労働省)は所謂御用学者を作って、隠蔽に回った、チッソが排出している有機水銀が原因だということを示す報告をにぎりつぶしだんだね。今も昔もかわらない、ひどいですね、ってある人に言ったら、その人に、でも水俣の時はしょうがなかったんじゃないか、企業を守ることで、日本の経済は成長して、それでみんなが豊かになり、幸福になったんだし、とか言われた。で、その時はそれに反発してもいたんだけど、心の中で、そうなのか、しょうがないのか、と納得する部分があって、今回の原発事故が起こるまで、そういう気持ちがだんだん大きくなっていたんだ。 今になって考えてみると、それは全然納得なんかしちゃいけないことだったんだ。経済の成長と、そういう隠蔽工作とかはたぶんぜんぜん関係ない。基本的な対立軸はそんなところにはなくって、僕らが生きていくのにどんな技術を追い求めていくのか、原発や宇宙開発に代表されるようないわゆる「巨大技術」なのか、「中間技術/適正技術」なのかっていう問題で、前者を選んだとしても、企業は統治されなくちゃならないし、民主主義の社会なんだから情報は公開されなくちゃならない。そして、不都合なことが起きたら、なおさら、きちんと明らかにして、人がそれぞれ、対策をとれるようにしなくちゃならない。
チート的なやりかたで企業を守ったりしなくても、経済を発展させることはできたんじゃないだろうか。まあそれは議論の余地があるにしても、その果ての今になって、なぜ僕らは貧しくなることに恐れをいだき続けているんだろう。今、ぼくらの社会はそれなりに豊かで、食べるに困る事もないのに、ちょっと調子が悪くなると、毎日電車に向けて飛び込む人がいるのはなぜなんだろう。同じ疑問を何度もくりかえし考えている。
一言で言うと、僕らは、豊かになりはしたが、幸福にはならなかったんじゃないか。それはなぜなんだろうか、ってことだ。幸福度に関しては、いろいろな指標があって、かつて、世界で最も豊かで安全な国と言われていたこの国の幸福度は、以前にくらべれば落ちたとはいえ、客観指標でいけば、まだそこそこいいとこにいくんだけど、なぜだか、幸福っていうか満足を感じている人はその割にすくないっていうのはたしかなようだ、たとえば、この記事。ちょうど震災の前々日の記事だね。
「公害」という言葉
思うに、その問題を解くヒントの一つがこの「公害」って言葉だ。Wikipediaで「公害」のエントリーからEnglishにとぶと "pollution"って、そりゃぜんぜん違うだろって言葉になる。"pollution"って言葉を日本語に訳すと「汚染」ってなるね。「汚染」っていうと、たぶん汚した人がいるなり、汚した組織なり企業なりがあって、誰かなり、何かなりに責任をはたしてもら おう、っていう感じになのに、「公害」っていうと、なんかおおやけのことなんだから、みんなでがまんしましょうって感じになってしまう。
この、「みんなでがまんしましょう」ってのが、息苦しさの原因じゃないかと思うわけだ。そうすると、なぜ「汚染」が「公害」になるんだろうってことにもなるわけだけど、というより、これは「公」+「害」なんて言葉が成立しちゃう(この熟語自体は中国の文献にあるようだけど、汚染って意味で使われているわけではない)ところが問題だ。そして「公」って言葉の意味がね。おおむね英語に訳すと「公」とか「公共」ってのは"public"って言葉になるのだけれど、これも言葉の間をいききするときにゆがみが生じる。これについては長くなるので、またいずれ。
* アイリーン・スミスっていうのは、ユージン・スミスの何番目かの奥さんで、ユージン・スミスがこの写真をとったころは、作品を作る上での助手みたいなことをしてた人。ユージン・スミスは、1972年に、この水俣の水銀汚染を引き起こしたチッソっていう企業の千葉の工場を訪れて、暴行を受けて(この時のチッソの会長は、皇太子妃雅子様のお祖父さんだね)、片目を失明して、その6年後に亡くなってるけど、アイリーン・スミスはまだ、ユージン・スミスが生きていた間に離婚している。いろいろややこしい。