2011年5月15日日曜日

絶対安全剃刀

進学校の高校生って、よく「おどかしっこ」(©庄司薫)をやるよね。たとえば、「おい、知ってるか、数学で、どんな公理系をとっても、それは完全やないんやで」*とかいうやつ。文学方面なら、たとえば、「与謝野晶子って子どもにすごい名前つけたんやで、アウギュストとか、エレンヌとか」となる。こういうことは、あらゆる分野におよぶので、マンガでもやる。男の子の場合、少女マンガを使うのは通常の戦略だった。そして、「絶対安全剃刀」って不思議な題のマンガを知ったのは、こういう「おどかしっこ」の中だったと思う。浪人していた時だったか、大学の教養過程の頃だったか。「高野文子ってすごいんだぜ」って言われて、「だれや、それ」って返したのはたのは覚えているけど、誰に言われたかか忘れてしまった。

これは、漫画の歴史ってものがあるならば、その歴史に残るような作品だから、wikipediaにも独立のエントリーがある。引いてみてもらってもいいけど、あらすじまで書いてあるのでネタバレがきらいならやめといた方がいい。うちの本棚にも一冊あるよ。探すのがたいへんだと思うけど。でね、その本は別に今読めとは言わない。言いたいのは、そもそも現実の世界に絶対なんてものはないのかもしれないけど、ましてや、安全とか危険とかに絶対はない、っていう話だ。

だいだい、こういう言葉を作られるとよくわかるけど、「安全剃刀」とか「安全ピン」っていうのが面白い。「愛される共産党」とか「みなさまのNHK」とかと同じくらい面白い、ってつい言ってしまったけど、わかんないよね。スルーしていいよ。

話を戻して、これ、なぜ面白いかっていうと、剃刀は切ったり削いだりするもので、ピンは刺すものだから、安全じゃない、危険なものだ、ただそれに安全って言葉がつけれられるのは、工夫によって他の剃刀よりはヒゲをそるときに、肌を切ったりしなくなったり、他のピンより指を刺したりしにくくなっているからだよね。つまり、安全とか危険とかは相対的な、方向性の問題なんだね、他のものとくらべてより安全であるこという意味での安全、より安全を求めるという意味での安全。逆に危険というのも、他のものとくらべてより危険という意味での危険、あるいは危険であることを予測し、それに備えるという意味での危険、そういうものでしかない。

くどいようだけど、別の言葉でくりかえすと(こういうのを敷衍する、っていう)、安全とか危険っていうのは、存在するのではなく、可能性の問題だということだ。だからどんなものでも、安全でもあるし危険でもある、表裏一体なんだよ、そしてそこに絶対はない。

だからね、絶対安全ってのがウソくさいんだ、というより、絶対安全とか、全く安全とかいう言葉が出てきたら、それはもうウソそのものだと思っていい。ところが、原子力発電所については、この「絶対安全」っていうウソがこれまでまかり通っていて、これがウソだとばれると、今度はミリシーベルト)までは全く安全っていう別のウソをついている人たちがいる。それにそもそも、危険に備えて、安全を求めなくてはいけない時に、危険はないから、安全だから、危険に備えなくていい、っていうのはどういうことなんだろう。

この話は本筋からちょっとずれる、ほんとは、今度は元素の話をしたかった、それがこんな話になってしまったのは、この件が気になったからだ。

原発事故の現場はひどいことになっている。放射線が強すぎて、2時間そこにいると半分の人が死んじゃう、4時間そこにいるとみんな死んじゃうという場所があるらしい。そして、今回の事故を終息させるためには、誰かがそこで働かなくちゃいけない。ぼくらの体をめぐっている血液の中には、赤血球とか白血球っていう細胞があって、この働きで命が支えられているのだけれど、こういう放射線の強い場所にいると、すぐには死ななくても、いろんな血液の病気が起こってくる、白血病とか、再生不良性貧血だとか。で、こういう病気になった時、治療の手段として(正確に言うと、一連の治療手段の一つとして)大変有効なものが、自己血輸血っていうやつだ。その究極のやり方が、上のリンクにある自己造血幹細胞の移植だ。

これも繰り返しになるけど、今回の事故が起こって、放射線は安全だ安全だと言い回っている人たちがいる、そりゃそうかもしれない、今言ったように安全と危険は表裏一体なのだからね、でも、プロパガンダ(政治のためにする宣伝)として、安全を強調しなきゃなんないというのは、逆にいうとそれが危険なからなんだ。 だから、なんとか、少しでもそういうところで働く人たちを安全にするためにはあらゆる手段をつくさなくちゃならない。そのための手段の一つが、この自己造血幹細胞の保存なのだけれど、あきれたことに、これに反対する人たちがいるんだ。しかもその人たちは、ざっくり言うと、今回の事故にあたって、そういう現場で作業する人たちがあびていいとされる放射線の限度を引き上げた人たちなのだね。

その人たちは、安全だから限度を引き上げました、安全だから、そんなことしなくていいですよと言う、これがどんな風にまちがっているか、どういう意味で魔女のことばなのかは、もう分かるよね。ほんとは、みんなを少しでも安全にするために、しかたがないから、そういう場所ではたらくひとたちにいままでよりも大きな危険を冒してもらうことにしました、その人たちが安全に働けるようにするために、できる限りのことをします、って言うべきなんだ。

後で書くつもりだけど、僕らは原発で作られた電気を使うことで、すこしずつ、人間性を失っていたのだと思う。この造血幹細胞の保存だって、いい考えとは言えない。「これをやっとけば安全だから、受けておいといて下さい」なんてとても言えない、「あなたがそこでどうしても働かなくちゃならないのなら、危険をすこしでも安全にするために、受けておいて下さい」って泣きながら言わなくちゃいけないような事柄だ。ところが、何度も言うけど、ある人たちは、薄ら笑いをうかべながら「安全だから、そんなことしなくていいですよ」って言うんだ。

さっきからおんなじことばかり言ってる。このまま書き続けているとおかしくなってしまいそうだし、夜も明けてきたので、今日はここまで。


* きみがこういうふうに言われたら、にっこり笑って「完全ってどういう意味なの」って聞いてみよう、たぶんちゃんと説明できるのは10人に1人くらい、「無矛盾」っていうこととの関連、で、どういう系が「無矛盾で完全」ではありえないのかって説明できるのは100人にひとりくらい、その証明の概略をきちんと言えるのは1000人に一人くらいだと思う。

2011年5月5日木曜日

いいは悪いで悪いはいい

前回、「スモール・イズ・ビューティフル」から引用したけど、これはシューマハーって人が書いた本。で、 題はシューマッハーがケインズ卿の言葉として引用しているんだけど、これ、ケインズ卿が言った言葉じゃなくって、シェークスピアの「マクベス」に書いてあるんだ。魔女の言葉としてね。なんだかふしぎなんだけど、原発の事故があってから、いろんなところでこの「いいは悪いで悪いはいい」って言葉が聞こえてくる。魔女が言ってるんだか、魔獣が言ってるんだかわかんないけどね。

例えば、

  1. 放射能ってのは実験なんかで使うこともあって、そういう時は、放射線管理区域っていう、きちんと区切られた場所で使って、放射能をそこから外に持ち出しちゃいけないってことになってる。ほんでもって、そういうところの中であっても、放射能を使える場所は決まっていて、ほんの4万ベクレル程度の放射能を床にこぼしてしまったら、こぼしたところの床のリノリュームをはいで、コンクリ削って、放射能を含んだその削りかすとはがした床材を、しばらく専用の場所に保管して捨てるって、それはもう大騒ぎになる。ところが、今回全体としては、その16兆倍くらい*1の量の放射能がばらまかれてるのに、安全だがら、何もしなくていいそうだ。あるいはよけいなことはしない方がいいそうだ。最近は批判にさらされて、何かやりたければやってもいいよ、ってのも言ってるみたいだけど。
  2. 福島原発の事故を受けて、東京電力と、原子力安全保安院は定例会見を開いている。この会見、日本の記者クラブ向けのやつには、まだ人が来ているけど、4月25日、外国人記者クラブ向けの会見にはついに一人も対象になる記者が来なかった。その動画を見たけど、背筋が凍るような光景だった。だあれもいない会場に向けて、延々、淡々と発表を続けているんだよ。言葉っていうのは、だれかに向けてのものであって。心の中で、シミュレーションとして自分に向けてやることはあっても、声に出して独り言をやっていると、精神を病んでいるとみなされる、ところが、そこでは、社会的に正気とみなされている人たちがえんえんと独り言を声に出しているんだ。全く、魔女の結界の中みたいだった。
  3. こういうことに比べれば、小さな問題だけど、どうして「よいは悪いで、悪いはいい」になっちゃうのか、っていうのが良く分かるのは、東電は原発の事故があるまで、コジェネ*2で作られた電力を買うことを拒否していたのに、事故以降、頼んで回って買ってるってことだ。たしか、以前買わなかったのは、電力の安定供給がどうのとか、送電網に適合しないのどうのだったとかだったけど、今回買い始めたことで、それはやる気になればどうにかなったことで、本当の理由は別にあるってことが良く分かる。本当の理由っていうのは、もう言わなくても分かると思うけど、コジェネの電力買うより原発を作って動かした方が(社会全体にとしてどうかではなく、東電にとっては)儲かるからだ。

まあ、よいとか悪いっていうのは、立場にもよる。ある人にとって良い事が、別のある人にとっては悪いってこともあるし、ある状況ではいけないことが、ある状況ではいいってこともあるらしい。「1人殺せば殺人者だが(戦争で)100人殺せば英雄だ」*3ってやつだね。それでも、ある時まで、ある共同体の中で、ルールによって悪いとされていたことが、ある時から、急に良くなっちゃうってのは問題だ。

それよりもっと問題なのは、ある時までは、これが正しいとなっていたことが、ある時を境として突然、いやそれは違うってことになるってことだ。

これもね、「事実は存在しない、あるのは解釈だけだ」(ニーチェ)なんてこともあるから、やはり、人によってものの見方が違うってことはある。でも、これは、その人の世界観によってってことであって、一人の人が、ある都合である解釈をしていて、都合が悪くなったから別の解釈をするっていうのはおかしいんだね。それが端的に出ているのは、最近になって、TVに出てる多くの専門家が、放射能/放射線は100 mSvまでは安全って大合唱し始めていることだ。ついこないだまで、急性障害=非確率的影響に関しては閾値(いきち)ってものがあって、これ以下であれば影響がない、安全だっていうのはあっても、晩発性障害=確率的影響には閾値がなく、これ以下であれば安全ってことは言えないっていうふうに言われていたんだ。

これはね、思い切り平たく言うと、ある嘘が嘘だとばれちゃったから、こんどは別の嘘をつくことにしました、ってことだと思う。このことについては、話が長くなりそうだから、また別の日に書くけど、今、このことを書いていて思い出した言葉がある、それは「絶対安全剃刀」って言葉。これ高野文子って人のマンガの題名なんだけど、なんかおかしな響きがあるだろう。どうして、「安全剃刀」って言葉に「絶対」って言葉をつけるとこんなにおかしな感じになるんだろう。これは本来「絶対安全」って言葉だけでもおかしいってことをこの表現があらわにしているんだと思うよ。


*1 4月12日頃までに、福島原発から外にばらまかれた放射能の量が、原子力安全委員会の発表によれば、6.3X1017 Bq、これを元に計算した。半径30kmの円を描いて、その面積とふつーのおうちのリビングルームが20 m2くらいだから、これを比較すると、1.4億倍ってことになる。これが何を意味するのか、よーく考えてほしい。

2011/07/03 この項、間違いがあり、訂正しました。床にこぼした放射性物質と、今回の事故で漏れた放射性物質の量の比と、30 km圏の面積とリビングルームの面積の比をそれぞれ、京→兆、兆→億に訂正しています。ただ、面積あたりにばらまかれた、放射性物質の量の比はかわらず、30km圏をリビングルーム相当とすると11万倍くらいってことになる。

*2 コジェネレーションの略、外来語みたいだけど、日本語。詳しくはこちら

*3 チャップリンっていう20世紀で最も偉大とされている喜劇俳優の「殺人狂時代」っていう映画の台詞が元らしい。そもそも、戦争の原因は構造的暴力であるって言われるけど、そのもっと大元までさかのぼると、この、ある人にとってよいことが、ある人にとって悪いってところにいきつく。むずかしい言葉でいえば、共通善の問題ってことになる。ただ、共通善の欠如しているから戦争や暴力が起きるっていうんではなくって、共通善を求める努力を当事者同士が放棄した時に、暴力や戦争にいきつくんではないかって思うんだ。